ストーリー

私の人生のストーリーを読みに来て頂きまして誠にありがとうございます。

現在、私は株式会社ダイバーシティというお花屋さんに特化した人材サービス会社を経営しております。同時にGOチングという人の人生をより良く創造するコーチもしております。

小中高と全く学校の勉強をせず、体育と美術、技術以外はほとんど「がんばりましょう」や「アヒルの2」の通知表を取っていた私がどうして社長になれたのか。

そして、どうやって自分が望むことを叶えて来ているのか。 少し長文ですが私の今までの私の人生をお伝えしたいと思います。お時間のない方はお時間のある時に読んで頂ければ嬉しいです。

私は、平凡なサラリーマンの家庭で二男として産まれ父の職業がら転勤の多い仕事だったので小さい頃は数回転勤を繰り返していました。

 

【幼稚園~中学校編】

赤ん坊の頃は、埼玉県所沢市に住み、そして幼稚園からは石川県金沢市に転勤し幼少時代を過ごす。

落ち着きがなく、怖いものなしのガキ大将の子供でいつも威張っていました。

そして8歳から群馬県前橋市に転勤するとほうげんの違いからか、または私の態度が大きかったからなのか、いじめられるようになりました。

その時に初めて、自分より強いものがいる事を知り、いじめられる側の気持ちを知ったのです。

でも、私はやられるだけでは治まらないので、直ぐにやり返し喧嘩を繰り返していました。

喧嘩をして友達と仲良くなっていった覚えがあり、この頃に人の気持ちに関心を持ち、どうしていじめられるのか、どうしていじめるのかなど人の心に興味が出てきました。

そして他人の気持ちを理解するように努力をしてコミュニケーション能力が自然に身についていったような感じがします。

勉強は先にも書きましたが全く勉強をせず、授業中は先生の話を全く聞かずに落ち着きがなく、誰かと話している、そんなやんちゃな子供でいつも先生に叱られていました。

塾に通ったり、家庭教師も付けていましたが本人がやる気がないので全く身につかず、テストの時は20点や10点がほとんどで0点の時もあり、その当時は、「家庭教師を付けている」+「塾に通っている」=「勉強をしている」<「テストの点が良くない」=「自分は勉強しても本当に馬鹿だ」という方程式を勝手に思い込み自己嫌悪に陥る事も多々ありました。

しかし、不思議と根拠のない自信もあったのです。自分は、「絶対に凄くなる。勉強ができなくたって何かが凄い。」と全く根拠もないのに思いこんでいました。(笑)

それはきっと母親が常に「勉強は出来なくったって良い」と励ましてくれていたからだと思います。

当時の母親の気持ちになると、とても心配していたのだと思います。出来の悪い息子で自分自身を励ますために「勉強が出来なくても良い大人になる」と言い聞かせていたのではないでしょうか。(笑)

そして、そのまま13歳まで前橋市に住んでいましたが、中学一年の時に当時高校生だった兄の影響で人生で初めてライブハウスに行き、大勢の観客の前で輝くスポットライトを浴びながらステージに立ち大きな音を出して演奏する兄達がカッコいいと思い、一緒にライブハウスに行った友人とバンドを組むことになりました。

そして、直ぐにお年玉で貯めたお金で木目調が強いレスポンスのエレキギターを自分購入しました。

その頃から既に私は親を頼らずに自分でほしい物を手に入れる気持ちが強かったように思います。

そして14歳で東京に転勤し、またもやいじめを受けました。

田舎から東京へ移るとみんな大人びていて冷たい感じがしてそんな雰囲気がなかなか馴染めませんでした。

そして中学2年生、3年生は大人しい偽りの自分を演じていました。この時は、とても暗くつまらないモヤモヤした2年間を過ごした記憶があります。

 

【高校~専門学校編】

高校は、地域でとても有名な学校にしか入れませんでした。偏差値が高く有名ではなく、その真逆です(笑)。

毎朝、パンチパーマ頭の先生が竹刀を持ちながら校門に立っていて、周りの友達はパーマは当たり前、茶髪でボンタンにタンラン(不良が着る学生服)で他校との喧嘩が毎日のようにあり警察にも目をつけられているような学校でした。

そんな中で高校生活を送り相変わらず勉強をせず学校にはかろうじて通っていましたが、授業中は寝ているかお弁当を食べているか。

そして夜はアルバイトをしたり、またはバイクで走りに行くかバンドにはまっていたのでギターの練習をするかでした。

ライブでは、当時流行っていたBOOWYのコピーバンドをしていたのでダイエースプレー(当時のバンドマン必須アイテム)で髪を逆立て化粧をしてステージに上がっていました。

そして、高校三年生で自分の進路を考えなくてはならない時に、自分は何がしたいのか全くありませんでした。

唯一、お金持ちになりたいと思っていたので、社長にはなりたいと考えていましたが、ずっと、自分が無駄に信じてきた「自分は勉強が出来ない=馬鹿=大学に行けない=社長になれない」と思っていたのでその通りになり、自分が将来したいこと、やりたいことが分からなかったのでインテリアデザインの専門学校へ進むことにしました。

※【無駄に信じる】(NLP用語的にはビリーフと言います。これは、制限となる信じ込みです。

自分が正しいと思っているので揺らぐことがありません。

しかし、それを持ち続けると行動に移せなくなってしまうので早いうちになくしてしまう方が良いです。

 専門学校に入っても勉強はせず、遊んでばかりでした、「自分は将来どうしよう」「何がしたいんだろう」「社長になりたいと思ってもどうしたらなれるのか全くわからない」 当時は、ちょうどバブル絶頂期で世の中浮かれまくっている時代です。

そして、アメカジ(アメリカンカジュアル)が流行っていて、私はアメリカのスタイルにはまり音楽からファッション、車、文化まであらゆるものに憧れるようになりました。

 

【社会人からフリーターそして経営者編】

そして、丁度バブル崩壊後に社会に出ました。

専門学校卒業後、CMの美術に入りました。この頃には、アメリカに行きたい。と強く思うようになり、社会人で働いてお金を稼いでアメリカへ行くつもりでしたが、当時、CMの美術の仕事は朝から晩まで24時間働いても残業代も付かず手取り15万円ぐらいでした。

仕事は楽しかったのですが、これではアメリカに行けないと思い、半年で退職しフリーターで働く事を決めました。

フリーターでは、葬儀専門の生花店で働きアルバイトにしては結構稼いでいました。

21歳~25歳まで働いていましたが、月収手取りの平均が35万円ぐらい。 そして、夏はサーフィン、冬はスノーボード三昧。アルバイトへ行くにもスケボーで通っていました。(笑)

そして、その稼いだお金で何度かアメリカへ行きました。友人とキャンピングカーで1ヶ月間アメリカ横断をしたり、マンハッタンで3ヶ月間ラーメン屋さんで働いたり、ニュージーランドで1ヶ月間スノーボードの旅に行ったりと自分のやりたいと思った事をすべてやっていました。

そして、その当時から自分は社長になりたいとアルバイト仲間に公言するようになりましたが、周りの人からは「お前なんて社長になれるわけねぇーだろ」とか「良い学校に行ってないんだから無理だ」、「フリーターがなれるわけないだろう」などと言われていました。

そのような言葉を聞くたびに、私は心の中で「絶対になってやる!」「見返してやる!」と思っていました。 その頃にはまだ自分の無駄なビリーフは消えていませんでした。

しかし、23歳の頃から遊びながらもそろそろ自分の人生を真剣に考えるようになり、社長を実現させるにはどうしたら良いのかを考えていました。

社長になるには、まずは社会勉強をしようと思いスーツを着たサラリーマンになろうと24歳から就職活動をスタートするもバブル崩壊後でずっとフリーターをしていた者を採用してくれるところがありませんでした。

40社ほど面接を受けてやっとの思いで採用された会社が1ヶ月間で倒産。。。その時は、心が完全に折れて力つきました。面接に落ちるたびに自分は、そんなに「価値がないのか」「良い学校を卒業していないとダメなのか」と自分自身を責めていました。

同時に逆の気持ちもありました。それは、「俺を採用しない面接官は見る目がない!」、「俺を採用すれば会社の売り上げをあげられるのにもったいない!」と根拠のない自信もありました。

その後、家で引きこもり状態となりました。

引きこもりも1ヶ月間ぐらいすると飽きて、気分も徐々に上向いてきた頃に元の葬儀専門の生花店のアルバイトへ戻らせてもらい働くようになりました。

その後直ぐに、その会社に派遣社員として来ていた私より17歳年上の男性が「佐内さん私と一緒んじ会社を作りませんか」と声を掛けてくれたのです。

社長になるために良い勉強になると思い、二つ返事で「はい!やります!」 ※この頃に、無駄に信じていた「勉強出来ないから社長になれない」のようなビリーフが消えていったと思います。

フリーターから行き成り取締役になれたことが自信につながったのだと思います。

そして、もう1名私より5歳年下の男子と3名で出資をし葬儀専門の人材派遣会社を設立して私は26歳で取締役に就任しました。

当時、葬儀専門の派遣会社は業界には既に数社ありましたが私が役員を務めた10年間で葬儀業界一番の会社に育ちました。

しかし、道のりは簡単ではなく、会社を設立して直ぐに共同経営の難しさを痛感させられたのです。

毎日のように経営方針で意見が衝突し、時には役員会議中にどなり声が響いたり代表が辞めると言い出したり、私も辞任の意思を伝えたりと、日々必要もないエネルギーを使ってストレスも溜まっていました。

それに加え設立当初は信用が全くない会社と取引してくれる取引先もなく、来る日も来る日も飛び込み営業をしたり、自分自身が現場に出て働いたりと、それでも中々取引先が増えない状況でした。

そして、初めて経験する経営者としても手探りで日々働きながらと有名な社長の講演会を聴きに行ったり、本を読んだりしていました。

恥ずかしながら私は学生時代勉強をしてこなかったので、それまで殆ど本を読まずに生きていました。

大きな理由は漢字が読めなかったり、本を読むのにとても時間が掛かったりするので面倒だったのです。

それが、26歳から経営者となって学ぶ物として色々な本を読むようになりました。

そこから読書中毒になり今では活字が大好きにまでなるのです。 そんな行動とは裏腹に会社は毎月赤字の月が続き、このままでは倒産というところまで切羽詰まっていました。

その時のストレスは想像を絶するほどでとても苦しい経験をしましたが、自分の会社という認識だったので絶対に成功させる気持ちと根拠のない自信があったので喧嘩をしながらも3人で力を合わせて何とか軌道に乗せる事ができました。

プライベートでは、まだ会社が安定していない2年目の時に結婚し大好きなスノーボードやサーフィンは全く行けず仕事に集中していました。

そして31歳の時に小さい頃からの夢だった自分の資金で自宅を購入することができました。

ようやく会社設立3年目の時に、取引先も増え安定してきたので私は次のステップだと考え事業計画書を役員会議で支社を作りたいと議題にあげ支社を作る事になりました。

会社を設立した時と同じように、ゼロからのスタートで今度は私一人で支社長として3年間勤めましたが3年後に本社の売り上げを超えるようにまで成長させる事ができました。

そして支社が安定してくると今度は葬儀業界以外のビジネスで勝負をしたくなり、花業界向けの人材派遣サービスを作りたいと考え、またもや役員会議で承認をもらい新規事業を立ち上げる事になりました。

そこから半年間マーケティングをし葬儀業界専門の人材派遣とは全くブランドイメージを変えてサービス内容も変えて業界で初めて花業界向けに派遣をスタートさせました。

すると今までに花業界で派遣会社がなかったので一気に売上が伸び1年で黒字化を達成することに成功しました。

そのことにとても私は満足をして取締役として10年間勤めた会社を辞任する決意をして辞任をしました。

私は、ゼロからイチを創り出すのが好きなようで仕組みが出来上がって安定してくるとモチベーションが下がってしまうので常に新しいことにチャレンジをしてきたように思います。

そして、2008年2月に現在の株式会社ダイバーシティを2名設立しました。

花屋専門の人材派遣会社としてスタートし順調に成長していくように思えました。

2度目の会社設立で慣れているとは言え、ゼロからイチを作り上げるには相当なエネルギーを使います。

そして、以前の会社を辞任して新しい会社では、売上がないので年収が500万円以上も下がり生活もぎりぎりな状態。

税金などは前年度の年収に対して翌年に支払いが来るので、とても払える状態ではなかったので市役所に行って延滞させてもらい1年間は止める事ができましたが結果、当然、止めている期間の税金も払わなければならないので支払う時にはとても苦しい思いをしました。

当時は、家のローンもあるし子供も小さいし早く会社を成長させて安定させようと焦っていました。

その甲斐もあってか順調に会社は成長していくことができましたが、2008年8月にリーマンショックが突然やってくるのです。

この時には、どこの会社の経営者も苦しい思いをしていた事でしょう。資金繰りが回らなくなり倒産してしまった会社も少なくありません。

そんな中で、出来たてホヤホヤの弊社はひとたまりもありませんでした。 売上は毎月下がっていき、銀行の預金残高もどんどん減っていく、そして自分の役員報酬よりも派遣社員さんや自社の社員の給料を先に支払い、お金が入ってきた時に役員報酬をもらうような状態にまでなっていました。

そのような状態が暫く続いていた時に、私は「希望」をなくしてしまったのです。全ての希望を。

私は小さい頃から物欲が強く欲しいものは自分で手に入れる主義でした。そしてお金があれば何でも買えるし、幸せになれると思っていました。なので、自分は絶対にお金持ちになるんだという強い意志を持っていました。

そのモチベーションのお陰で社長にまでなりましたが、自分が理想としているお金(収入)と現実のお金のないギャップに苦しみ私は鬱を患うようになってしまいました。

※ここでは、自分の価値観(クライテリア)と現実とのギャップが大きすぎていたのです。自分が理想とする年収と現実の収入のギャップが埋められ無い状態。

1年間とても苦しく毎日、気が重く、物事が考えられなくなるほどに頭がぼーっとしていました。

会社に出勤するのも嫌になり、パートナーの役員に会社を任せ、たまにしか出社しなくなりました。

そんな状態を数か月続けていると会社は余計に傾き始め倒産ギリギリのところにまでなってしまうのです。

そして、パートナーの役員が辞任をし社員も辞めていき、2人で競合他社を立ち上げたのです。

精神的に追い詰められている時にパートナーに裏切られ、どん底の気持ちでした。

その時には自分が死ねば保険金も降りてローンも返済できて家族もしばらくは大丈夫だろうと考えるほど追い詰められていました。

その後、東日本大震災が起きるのです。災後2週間後に私は物資を持ってボランティアに行きました。

当時、放射能の噂がひどく、首都圏から逃げ出す人も大勢いましたが、私は自分の命はどうでもよいと思っていたので人のお役に立ちたいという気持ちでボランティアに参加をしました。

現地へ行ってみると辺り一面、建物がグチャグチャになっている状態、道もひび割れや通行止めのところもあり、津波で陸に打ち上げられた魚が腐った臭い匂い、そして被災者の方々の希望のない目を見た時に私は何とも言えない気持ちになりました。

被災者の方々は、家を無くし、家族も亡くし、食べ物も着るものもない、そして燃料がないので暖房もなく寒い中で生活をしている。そんな状態に比べると私はなんて恵まれているのだと気付かされたのです。

私には東京に家があり、家族がいて、食料も着るものもある、暖房もある。例え、会社が倒産して借金が残ったとしても何でも仕事をすれば生活は出来る。

「お金がなくても今の自分は幸せなんだ」と。

その事で私の鬱は治ってしまったのです。

NLP的に言うとビリーフとクライテリアが変わってしまったのです。

そして、会社は役員と社員が辞めていったことで、コストが下がり倒産を免れる事ができました。

会社にはパートの女性が一人だけ辞めずに残ってくれて、震災後という事もあり中々売上は伸びない状態が続きましたが私とパートの2人になったので何とか継続することが出来て、震災後の半年後以降からは順調に売り上げが戻るまでになりました。

今では、そのパートの女性は社員となり私の大事な存在になっています。

彼女が会社に残ってくれなかったら一人では会社を立ちなおす事すら出来なかったと思います。

本当に命の恩人だと感謝しています。

現時点で自分の人生を振り返ると紆余曲折いろいろありましたが、自分の望みどおりに生きていると実感します。

もちろん、自分一人の力では叶わない事もありました。そして当時は辛かったことも全て意味がある事が分かります。

望みどおりになった一番の要因は「夢を持ち諦めない」そして、「自分を信じる気持ち」この二つが多かったと思います。

そして、NLPを学んだ後に気付いた事は、無駄なビリーフは早めになくすこと。

そして、自分の価値観(クライテリア)と現実を一致させることが大事なんだと。

私はGOチングを通して、多くの方々の人生をより良い未来に創造するお手伝いをしていきたいと思います。

そして、子供たちへの教育、またはその両親への教育もしていくつもりです。

その延長線上には世界平和があると信じています。

そのビジョンに向かってチャレンジし続けていきたいと思います。

拙い文章を最後まで読んで頂きましてありがとうございます。

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